デルポイの聖域。 デルポイの神託(ピュティア) 【グレゴリウス講座】

ギリシャ世界遺産:デルフィの考古遺跡地図

デルポイの聖域

古代ギリシアの地方のパルナッソス山麓にあった。 大地の中心にあたると信じられ,有名な所が置かれていた。 神託は,三脚台の上に座り,から出るガスを吸って入神状態に入った巫女の口から述べられた。 もとは大地女神ガイアのもので,という名の竜が番をしていたが,のちにこの竜を退治したの所有に帰したとされ,とともにこの神のの中心地として全ギリシア人のを受け,政治的にも文化的にも重要な役割を演じた。 の内部にはの墓があり,アポロンがの国へ行って不在となる冬の3ヵ月間は,ディオニュソスがデルフォイのあるじになるとされた。 4年ごとの大祭のおりには,有名なが全ギリシアからの参加者を迎えて催された。 現在はと呼ばれ,前4世紀に建てられたアポロンしかしていないが,神域内には前6世紀にアテネ市民が奉献した神庫が復元されている。 1987年世界遺産の文化遺産に登録。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 古代ギリシアの神託で有名なポリス(都市国家)。 中部ギリシアのフォキス地方、パルナッソス山の南麓 なんろく にあった。 英語名デルファイDelphi。 遺跡は1987年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。 紀元前二千年紀に大地母神ガイア(ゲー)の聖所があり、神託も行われていたが、前9世紀に新来者アポロンがゲーの地位を奪った。 前8世紀以降しだいに名声を高め、異民族の権力者などもその神託を求めるようになり、遅くとも前6世紀にはギリシアのもっとも重要な神託所になった。 アンテラからデルフォイに中心を移したアンフィクティオニア(隣保同盟)が、前6世紀初めに第1回神聖戦争を起こしてフォキスのキラを破壊し、前582年ごろには、アポロンに捧 ささ げられる従来の祭りをもとに、4年ごとの全ギリシア的なピティア祭を始めた。 ペルシア戦争ではギリシアの敗北を予想したが、神託に対する人々の信頼はなお長く維持された。 しかし以後、アテネ、スパルタ、テーベなど、そのときどきの指導的ポリスの影響力に屈するようになり、前356~前346年のフォキス人に対する第3回神聖戦争の結果、アンフィクティオニアはマケドニア王フィリッポス2世に支配されるに至った。 ヘレニズム時代、ローマ時代にも衰退は進み、キリスト教を国教化したローマ皇帝テオドシウス1世によって、紀元後390年にこの異教の神託所は閉鎖された。 神託は、結婚、病気、商売など私的な問題と、祭儀、和戦、国制、植民など公的な問題の別なく求められた。 神託所はアポロン神殿の奥にあり、依頼者は男性の神官を介して、ピティアとよばれる巫女 みこ に質問し、鼎 かなえ の上に座した巫女は、神がかりの状態になってアポロンの神託を語り、神官がそれを韻文の形に整えて依頼者に伝えた。 神託所の床の岩に割れ目があり、底から立ち上る蒸気を吸うと巫女は神がかりになったとの伝承は、今日では一般に信用されていない。 現在のデルフォイ(現代ギリシア語ではデルフィDhelf と発音する)は、古代の遺跡の上にあった村カストリを約0. 8キロメートル西に移して、1892年につくられた人口約1200の村である。 [清永昭次] …彼は一般にもっともギリシア的な神格とされるが,もともとは小アジアもしくは北方遊牧民に起源をもつ外来の神であったと考えられている。 神話では,アポロンの生地はまだ浮島だったころのデロス島とされ,誕生直後に父神ゼウスから弓と竪琴を与えられた彼は,まず白鳥に運ばれて行った 極北人 のあいだで1年を過ごしたあと,世界の中心としてオンファロス 〈へそ〉の意 の異名をもつデルフォイに来ると,大地女神ガイアの神託所の番をしていた大蛇を射殺し,新たにみずからの神託所を開いたという。

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公的な文書から日常会話まで幅広く用いられているのは、上の一覧で「別名」がついていない 正式な名前のほうです。 新聞記事や政治的なスピーチなどでも用いられます。 古代ギリシャの 農業に由来した名前で、6月が小麦を刈り取る月、7月が脱穀の月であることからこう呼ばれるようになりました。 属格(日付として表す場合) 月名を日にちや曜日などといっしょに「日付」として表す場合には、月名を 属格という形にします。 月名は暦によって異なりますが、その地域にゆかりのある ギリシャ神話の神々の名前や、その 神々のための祭祀に由来した名前が多く見られます。 神の名前に由来• 祭祀の名前に由来• 祭祀に関連した事柄に由来• そのため、何年か経つと、暦と実際の季節とにズレが生じてきます。 そこで数年にいちど、最後の月のうしろに 閏月を足してその年を384日間とする、といった補正をしていました。 例えば、現在の「🎍1月1日」を、上でご紹介した アッティカ暦に対応させてみます。 現在のある年の「🎍1月1日」がアッティカ暦の「🎄🎍ガメーリオーン月の1日」に対応するとします。 またこの年は、年末に閏月が足されているものとします。 閏月のある年は365日より長くなりますので、翌年の「1月1日」は、前年の 閏月「🍷🎄ポセイデオーン・ ベータ月の12日」になります。 そしてこの年は閏月なしです。 翌年の「1月1日」は「🍷🎄ポセイデオーン月の23日」になります。 このように、現在の月日に対応させようとしても年々ズレていきます。 ただ、閏月での補正があるので一定の範囲内にはおさまりますので、このページに掲載した月名の一覧にはその 対応月の範囲を書いています。

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アテナプロナイアの聖域(デルフィの考古遺跡) 観光ガイド

デルポイの聖域

古代ギリシアの4大競技祭典 大祭が開催されたデルポイの地は、古くはピュートーと呼ばれ、そこには大地女神の代理、または女神自身とも考えられる大蛇が住み、地域を支配していた。 ピュートーには、ガイアまたは女神の託宣所があり、ピュートーンが悠久の過去より、これを管理していたとされる。 しかし新たに訪れた神アポローンがピュートーンと戦い、これを打破して、聖地の支配権と託宣所を自分のものとした。 ピュートーすなわちデルポイの地は、アポローンの聖地で託宣所となった。 こうして、と呼ばれるが、大地より吹き出す煙を吸うことで恍惚状態になり、アポローン神の神託を告げた。 この託宣は、における神の神託と同程度、あるいはそれ以上に有名で権威あるものとなり、の際に、はいかなる対応をすればよいのか、神託に頼ったことでも有名である。 ピューティア祭は、死せる大蛇ピュートーンに対する葬礼競技より始まったともされる。 ピュートーンの託宣を担っていた巫女たちは、そのままアポローンの神託を伝える巫女としてその地位に留まり、これがデルポイの神託へと続いて行った。 音楽と詩歌の競技 デルポイ聖域のスタディオン には、すでにピューティア大祭はギリシア全土で著名であり、最初は、アポローン神を称えるに相応しいよう、との創作・発表競技が行われていた。 伝説では、このような競技は、アポローンがピュートーンの大蛇を打破したときより始まっているとされる。 それほどに古くからこの地は、ギリシアの中心として有名であった(発掘調査では、以前に遡る遺跡も見つかっている)。 デルポイは県の南岸近くに位置し、その北東わずかな地点には、これもアポローンの聖地であるが控えていた。 この山の麓には、スタディオンと呼ばれる競技場や、また劇場があり、これらの施設がピューティア大祭の際の競技の場に使用された。 競技の多様化と例祭化 以降、ピューティア大祭は4年に一度、定期的に開催されるようになる。 これは隣接するクリッサが巡礼者へ通行の重税を課した事から戦争が起こり、クリッサ粉砕後戦勝祝いに体育競技を加えて変更された背景が存在する事による。 これを通じて全ギリシア的規模で祝われた四つの競技祭の一つとなり、オリュンピア大祭(競技)の開催時期と調整して、オリンピック競技の開催年から2年後、あるいは開催予定年の2年前に、この大祭は開催されることとなった。 演奏の競技が最初に行われていたが、やがての伴奏付きのや、の演奏、フルートの伴奏による歌唱などが加わった。 更に、の上演コンクールや、や作品の朗読競技が行われ、紀元前582年以降では、オリュンピア大祭に倣って、各種の運動競技も加わり、また戦車()による競争も加わるようになった。 この戦車競技には粉砕されたクリッサの野がそのまま使われている。 月桂冠 これらの数々の競技には、全ギリシアから参加者やその見物人が集まり、の国際親善の場とも機会ともなった。 各種競技の優勝者には、の聖樹であるつまりの葉で飾られたが贈られ、これを「」と称した。 聖なるデルポイの平和 およそ三ヶ月ほど続く大祭の開催中には、「聖なるデルポイの平和」が宣言された。 この宣言で、競技参加者や観客など、大祭の参加者全員が、危険なく安全に自分の国からデルポイを訪問し、再び安全に帰国できることが保証された。 大祭の期間は、市民集会所や市場が開かれ、多数の訪問者が費やす金銀は、デルポイ市にとって大きな収入源ともなった。 また、デルポイはこの期間、各種技芸や芸術の重要な交流の場となった。 大祭と競技進行次第 チャリオット御者像 デルポイ祭競技に関する証言記録や文書類は、意図的な湮滅の暴力と自然災害の結果、ほとんどが失われてしまった。 残存している資料はいずれも、競技大会の栄誉や魅力を強調し取り上げている。 の記録によって、大祭の概略が得られる。 競技大会は6日から8日のあいだ続き、神がに打ち勝ち勝利を得た様子を再現する「聖なる競技」から始められた。 陽気で魅力に満ちた祭の進行のなかで、アポローンの神殿において「大祭の犠牲」の献納式が行われた。 祝祭の四日後、一般の競技が開始された。 音楽演奏と演劇のコンペティションは「劇場」で行われ、スポーツ競技は「デルポイのスタディオン」で開催された。 ・レースは、峨々として険阻なデルポイの山容の景観も考慮して、近くのクリサの平野で行われた。 音楽の技芸競技として、以下のものがあった。 神アポローンを扱った讃歌一編• フルートとキタラー(古代ギリシアの弦楽器)の演奏-歌唱が付く場合と付かない場合• 演劇と舞踊のコンペティション• 絵のコンペティション デルポイの競技祭は名誉ある競技であった。 競技の勝利者は、賞金を受け取るのではなく、の場合に、「オリーブの小枝」を受け取るように、「月桂樹の小枝」を受賞した(これらの小枝は冠の形にして、オリーブ冠やの形で勝者の頭上を飾った)。 時として、競争の賞品として林檎が提供され、勝利者は、象徴的な「椰子の木の小枝」をピューティア祭で受け取ることもあった。 オリュンピア競技祭でも似たようなことがあった。 特別な栄誉と称賛の贈物として、競技者たちのため、彫像がまた捧げられた(の地で発掘され出土した「チャリオットの御者像」は、このような競技の勝者の栄誉のために制作された像とも考えられる。 右図参照)。 とはいえ、勝利者が自身の故郷のポリスで受け取る名声は、何にも較べがたく価値があった。 各ポリスは、その代表である競技者が、競技祭でできる限り優れた成功を収めることができるよう、あらゆる手を尽くし援助を惜しまなかった。 ピューティア大祭の終焉 紀元、との皇帝であるが、ピューティア大祭をその非キリスト教的な性格故に異教神殿破壊令を出し禁止、そして神域の崩壊に至る。 ここに、1千年近くにわたって継続していた大祭と、それに付随する全ギリシア的競技大会は終焉した。

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