エルマ 歌詞。 【ヨルシカ/エルマ】の歌詞の意味を徹底解釈

ヨルシカのだから僕は音楽をやめたという曲の歌詞の意味について調べたん...

エルマ 歌詞

このことから、藍二乗はエイミーがへと旅をする前に、エルマのことを想って書かれた歌だということがわかる。 藍二乗の藍はエイミーが使う万年筆のインクの色であると同時に、2乗すると「-1」になる単位の「i」、つまり 「君がいない」ということを表している。 楽曲を通してエルマに会いたいけれど、もう会うことはできないという、何かの決意のようなものを感じる。 そしてMVの最初、黒い画面の中に小さく「dear」の文字が見える。 この楽曲自体がエルマへ向けた手紙ということなのだろう。 また、「止まったガス水道」という歌詞から光熱費を払うことができない状況、つまりエイミーは仕事を辞めていることが伺える。 もちろんテレビも新聞もある筈がなく、世の中で起こっているニュースも知らずに、ただ曲作りに集中していたのだと思われる。 あの頃ずっと頭に描いた夢も大人になるほど時効になっていく ただ、ただ雲を見上げても 視界は今日も流れるまま 遠く仰いだ夜に花泳ぐ 春と見紛うほどに 君をただ見失うように 「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この一節からは、かつて思い描いていた夢を諦めている様子が伺えるが、 エルマを思い出している間だけはそんな過去を忘れ、心に春が来たような気持ちにさせてくれていたのだろう。 けれど自分で作った曲は売れず、人生が思うようにいかないことを知り、何を信じていけば良いのかわからなくなってしまった。 (顔中を覆っているインクのようなものは、涙を流すエイミーの心情を表しているのかもしれない。 ) 人生は妥協の連続なんだ そんなこと疾うにわかってたんだ エルマ、君なんだよ 君だけが僕の音楽なんだ 「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna これは売れる為には自分の作りたい曲ばかりを作っていては駄目なんだと、まるで自分に言い聞かせているようでもあり、エルマの作る音楽こそが自分の求めていたものだと述べていることから、エルマの持つ音楽の才能に気づいていたことを示していると思われる。 この詩はあと八十字 人生の価値は、終わり方だろうから ただ、ただ君だけを描け 視界の藍も滲んだまま 遠く仰いだ空に花泳ぐ この目覆う藍二乗 「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 「この詩はあと八十字」から、きっちり歌詞が80字で終わっている為、エイミーは物語の完結に対する強いこだわりを持っていた同時に、エイミー自身の寿命があと僅かであったということを示唆しているのかもしれない。 それと「視界の藍も滲んだまま」には、藍二乗のもう1つの意味が表されている。 エイミーが空を見上げると涙で視界が滲み、空の藍色が 涙で二重に見えるという情景だ。 MVの最後には、エイミーと思われる男性が空っぽの木箱に手紙を入れている様子が映されている。 きっとこの歌がエルマに宛てて作られた最初の楽曲なのだろう。 インク瓶• 万年筆• カメラ• 詩と楽譜を仕舞う木箱• バイトで貯めた資金 と最低限の荷物を持って、人生最後の旅に出ることを手紙で宣言している。 そして、この街の聖堂で詩を考えるのがになっているという記述から、恐らくこの「詩書きとコーヒー」もそのルンド大聖堂で作られた曲である可能性が高い。 最低限の生活で小さな部屋の六畳で 君と暮らせれば良かった それだけ考えていた 幸せの色は準透明 なら見えない方が良かった 何も出来ないのに今日が終わる 最低限の生活で小さな部屋の六畳で 天井を眺める毎日 何かを考えていた 幸せの価値は60000円 家賃が引かれて4000円 ぼやけた頭で想い出を漁る 「詩書きとコーヒー」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 幸せの色は 準透明とは2ndミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」 の収録曲であるのことを指し、確かに存在するが、目に見えない 幸せというものに対して、それが自分の元を去っていく エルマにはもう会えないという不幸を感じる くらいなら、そもそも幸せなんて知らないほうが良かったと表現しているのだろう。 そして幸せの価値という言葉も2ndミニアルバムの収録曲の歌詞 幸せの文字が¥を含むのは何でなんでしょうか。 「」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna から由来しているものと思われる。 つまりここで言う幸せとは、お金と関係する意味合いを持ち、 幸せとお金は繋がりのあるものという認識がエイミーにもあって、 お金 給料 =幸せの価値と捉えていたのかもしれない。 従って、給料の60000円から家賃の56000円を引かれて、残りは4000円という生活の苦しさを歌詞で表しているものと考えられる。 また、「少し大きくなった部屋」からは、家具などを引き払い、どうにか生活をやりくりしていた様子が伺える。 寿命を売るなら残り二年 それだけ残してあの街へ 余った寿命で思い出を漁る 「詩書きとコーヒー」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 「寿命を売る」なんていう表現は、一般的に使われることはない。 これは例えば何かの作品を世に出すような、創作家などが使う 活動期間のことを指すのではないだろうか。 そして本来はあと二年でその人生に幕を下ろすはずだったのかもしれないが、実際エイミーはこの旅を始めてから一年も経たずしてその生涯を終えることになる。 エイミーは人である前に芸術家であった。 その部分が勝ってしまったが故に、エイミーは人としての普通に関してあまり興味を持たなかったのだろう。 しかし、エルマと出会ったことで普通の生き方(エルマとの生活)に憧れ、求めるようになったが、とあるきっかけ(恐らく寿命)でそれが叶わぬものと知り、世界に、己の人生に失望してしまったのではないかと思われる。 これは推測だが、手紙に「に向かう道中でスリに遭った」と記されており、分けて保管していた現金とインクを盗られている。 このことから当初、エイミーは曲の制作活動を二年間行える程の資金とインクを持ち合わせていたが 詩書きとコーヒーより 、スリに遭ったことによってその活動期間を縮めざるを得なくなってしまったのかもしれない。 そして自分の人生の期限さえも自分で決めてしまう程の芸術至上主義だったということになる。 (インクの量=寿命と決めていた。 ) 更に、が遺した は三尺の童にさせよ という言葉についても触れていて、慣れて技巧ばかりを凝らすようになってしまった自分の音楽は、既に賞味期限が切れており、今まで続けていたものは所詮、芸術の真似事に過ぎないのだと心境を明かしている。 エイミーはこの時点で、リンショーピンという街に訪れているようだ。 数日前に書いた詩について 「青」とは毒性の人工染料で、エイミーが万年筆で使用していたインクのことだ。 恐らく、ノーチラスで服用していたものも「青」だと思われる。 そしてエイミーは「青」にもう一つの意味を持たせていた。 さようなら 青々と息を呑んだ 例う涙は青だ 黙ったらもう消えたんだよ 馬鹿みたいだよな 思い出せ! 「五月は青の窓辺から」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 手紙によると、あの詩に書かれているのは全て涙のことであり、涙というのは毒に近いものだと表現している。 涙は自分の弱さを正当化するための麻酔であると共に、辛い現実から目を背ける「逃避」なのだという。 加えて、作品を笑われた時のことを自分の弱さ=毒だと述べており、このことから、エイミーは過去に自分の作品を馬鹿にされた経験があるようだ。 従って、激しいロック調で演奏されているこの楽曲は、その時のエイミーの怒りを表しているのではないだろうか。 しかし、一つ気になる点がある。 「空いた教室」、「指を指された僕」など歌詞の中に学生時代を連想させる言葉が入っていることだ。 あくまで自己解釈だが、これは学生時代に出会ったエルマとの思い出ではなく、エルマに音楽を教えていた夏の記憶ではないだろうか。 エイミーは音楽を教えるという立場から、エルマといたその場所を教室と例え、その時間をまるで学生時代のように歌詞で表現したものと思われる。 けれど、エルマに音楽を教えている内にその才能に気づいてしまい、心のどこかで嫉妬のような感情が少しずつ湧きあがる。 そこに売れない自分の作品に対する怒りが重ね合わさり、涙さえも否定するという心情をこの歌詞で伝えようとしていたのかもしれない。 嗚呼、人間なんて辞めたいな そうだろ、面白くも何にもないだろ 嗚呼、自慢のギターを見せびらかした あの日の自分を潰してやりたいよ 伝えたい全部はもう 夏も冬も明日の向こう側で 灰になったから 淡く消え去ったから 疾うに失くしてたこの情動も何処かへ投げ捨てて 君がいいのなら ただ忘れたいのなら もう躊躇うことなんてないよ このまま夜明けまで踊ろうぜ 「踊ろうぜ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この歌詞では、それなしでは生きられない程に、自分の人生を変えてしまった音楽に対する恨みとその音楽を選んてしまった自分へのやるせない思いを表しているのだろう。 そしてそれら全てを、皮肉にも「踊ろうぜ」という曲名の歌で忘れ去ろうとしているように感じる。 嗚呼、音楽なんか辞めてやるのさ 思い出の君が一つも違わず描けたら どうせもうやりたいこと一つ言えないからさ 浮かばないからさ 君を知ったまま 日々が過ぎ去ったから どうか追いつきたいこの情動をこのまま歌にしたい 今が苦しいならさ 言い訳はいいからさ あぁもう、踊ろうぜほら 「踊ろうぜ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna エイミーにとって、音楽の他にやりたいことなど無く、思い浮かばなかった。 だから、の旅を通じてエルマに宛てた手紙と詩(楽曲)を書き終えることができたなら、音楽を辞めることにするという決意をこの時点で抱いていたのかもしれない。 ヴィスビーについて 時代に繁栄していた貿易都市で、今も中世の匂いが色濃く残る遺跡の街。 「輪壁」と呼ばれる、街の周囲をぐるりと囲む城壁は中世に作られたもので、年月が経っても変わらない姿を見ることが出来るそうだ。 恐らくここで言う「輪壁」は、エイミーの心を覆う 障壁のことを指しているのではないだろうか。 それと、エイミー個人の話も綴られていた。 昨夏の初め頃、バイトを辞めたエイミーは、久し振りに駅前で路上ライブを行っていたようで、ふと目の前を見ると、一人の中年男性が立ち止まって歌を聴いていたらしい。 そして次の曲が終盤に差し掛かった時、その男性が感想を言った。 「詰まんない歌だな」 その言葉を聞いてエイミーは、ただどうでも良かったと記しているが、手紙の最後には あの日見た夜紛いの夕暮れを、まだ忘れられないままでいるという怒りとも呼べない感情を書き表していた。 がらんどうの心が夕陽の街を歩いてく 銃身よりも重いと引き攣ったその嘘の分だけ 人生ごとマシンガン、消し飛ばしてもっと 心臓すら攫って ねぇ、さよなら一言で 「夜紛い」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna マシンガンという単語には2ndミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」の収録曲に似た、心の中に宿ってしまった破壊衝動を表しているものと思われる。 人生ごとマシンガン 消し飛ばしてもっと 苦しいんだと笑って ねぇ、さよなら一言で 君が後生抱えて生きていくような思い出になりたい 見るだけで痛いような ただ一つでいい 君に一つでいい 風穴を開けたい 「夜紛い」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 風穴を開けたいという歌詞は、一見すると物騒な言葉だが、 これはエルマにこのまま忘れられたくないという思いと、こんな自分を認めてほしいという存在欲求を比喩した言葉だと思われる。 つまりエイミーはエルマにとって、いつまでも忘れられないような 特別な存在になりたかったのだろう。 そしてその記憶を忘れない為の方法を探していた。 その答えがエイミーの取り柄でもある音楽の中、つまり歌詞に綴るという表現方法だったのであろう。 これは個人的な解釈だが、「ひとりぼっちのパレード」というどこか矛盾を感じる言葉には、エイミーが一人でエルマへの思いを書き連ねるパレード(文字の行列)という本来のパレードとは相反する儚い意味合いが込められているのではないだろうか。 ずっと前から思ってたけど 君の指先の中にはたぶん神様が住んでいる 今日、昨日よりずっと前から、ずっとその昔の昔から。 わかるんだ 「パレード」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna エルマの指先に注目して、まるで褒め称えているかのようなこの歌詞は、もしかしたらエルマが弾いていたピアノを指しているのかもしれない。 そしてそのピアノの音色に、自分にはない音楽の才能を見いだしていたのだと思われる。 また、この手紙はエイミーが書いた「パレード」の詩の翌日に書かれたものであり、その後日談のような内容たった。 身体の奥 喉の真下 心があるとするなら君はそこなんだろうから 「パレード」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 「身体の奥 喉の真下」が指すもの。 それは声(声帯)のことを指していて、目には見えないが、心臓を伝い、肺から気管を通り口から出る。 その空気の振動にこそ、心が宿るのだという。 これも推測だが、もしかしたらエイミーはもう一度エルマの声を聞きたくなったのか、 或いは感情が込められた歌声のように、心を宿らせることができるのは、人から発せられる声だけなんだということを伝えたかったのかもしれない。 それと、神様についての話も書かれていた。 神様は作品の中に宿るわけであって、人間の中に宿っているわけではないと思うのは創作家の傲慢だという。 そこにはエイミーの持つ思想について書かれており、自らをオスカーワイルドに倣う芸術至上主義者だと述べていた。 これには、その人の体験した人生や自然、社会といった周りの環境を模倣して芸術が作られるのではなく、むしろ芸術には人生を変えてしまう程の力を持っているという意味が込められている。 それから手紙の最後には、そろそろインクが尽きようとしている旨が書かれていた。 ヴィスビーは本当に良い街だけど、長居し過ぎてしまった。 お金もインクの残りも少なくなっている。 どうやらエイミーはこれからへ戻るようで、そこは彼が幼少期に住んでいた街らしい。 バイトを辞めたことについて 正確に言うと、逃げ出したようだ。 その日は綺麗な欠けた月が出ていたようで、自転車に乗っての駅前を無心になって漕いでいたという。 そしてその時にエイミーはもう、この夏で全てを終わらせる覚悟を決めていたようだ。 良いミュージシャンについて ロバートジョンソン、ジミヘンドリクス、ブライアンジョーンズ、ジムモリソン あの頃の良いミュージシャンは、皆27歳でこの世を去った。 27クラブなんて言う有名なジンクスもあるくらいだ。 この言葉から、(決して共感できることではないが)エイミーは27歳で人生の幕を下ろすことに美徳のようなものを感じていたのだと思われる。 手紙の最後には、の引用 「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い。 」 という詩と共に、 一滴の涙の跡と思われるシミが付いていた。 心臓が煩かった 歩くたび息が詰まった 初めてバイトを逃げ出した 音楽も生活も、もうどうでもよかった ただ気に食わないものばかりが増えた 八月某、月明かり、自転車で飛んで の高架橋、小平、富士見通りと商店街 夜風が鼻を擽ぐった この胸の痛みは気のせいだ わかってた わかった振りをした 「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この楽曲は歌詞全体を通して、自暴自棄ともとれるエイミーの荒々しい感情が表現されている。 その原因と思われる言葉が、歌詞の中に散りばめられており、何らかの病気を示唆しているものと思われる。 「心臓が煩い」• 「歩くたび息が詰まる」• 「胸の痛み」 心臓が煩かった 笑うほど喉が渇いた 初めて心を売り出した 狭心もプライドも、もうどうでもよかった 気に食わない奴にも頭を下げた 「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 歌詞に出てくる「狭心」という言葉。 このことから推測できるのは、恐らくエイミーは 、或いは心臓の病気を患っていた可能性があるということだ。 病気の正体を知ってしまったエイミーは、その人生がもう長くはないことに気づき、このような死を意識した楽曲を作ったのではないかと考えられる。 最低だ 最低だ 別れなんて傲慢だ 君の全てに頷きたいんだ そんなの欺瞞と同じだ、エルマ 「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この時のエイミーにとって、唯一の心残りはエルマであり、エルマにある音楽の才能をどうにかして本人気づかせたかったのだろう。 しかし、エイミーがそれをしてしまえば、自分にはその才能がないことを認めてしまう。 (自分の音楽を否定することになってしまう そんな嫉妬と葛藤するエイミーの思いが、この楽曲から感じられる。 その違いと理由について考えてみた。 一、「あんた」はエイミーの人生に影響を与えた外的要因。 ニ、「あんた」はエルマを皮肉った言葉。 まず前者は、エイミーの人生や考え方を決めてしまった(決めざるを得なくなってしまった)外的要因をまとめて、「あんた」と呼んでいたのではないだろうかというものだ。 病気の発覚や自分の作った音楽が売れない現実、才能のあるエルマとの出会いなどの体験は、エイミーにとって人生観や考え方を狂わせてしまった大きな原因であったと思われ、それらのせいで「僕は変わってしまったんだ」という自己主張なのだと考えられる。 そして後者は、やはり「あんた」という二人称はエルマのことを指しており、エルマの存在が自分を変えてくれたのだということを伝えたかったのではないかというものだ。 エルマと出会う前のエイミーは、夢を諦め、売れることだけを考えながら曲を作っていた。 しかし、エルマと出会い、彼女の価値観や作品に対する考え方に触れていく内に、売れることなんてどうでもいいことなんだと気付かされ、本来のエイミーの音楽を思い出させてくれたのだろう。 そのことを、感謝の意味を込めて「エルマのおかげ」と伝えようとしたが、素直になれないエイミーは「あんたのせい」と皮肉めいて書いてしまったのだと考えられる。 考えたってわからないし 青春なんてつまらないし 辞めた筈のピアノ、机を弾く癖が抜けない ねぇ、将来何してるだろうね 音楽はしてないといいね 困らないでよ 心の中に一つ線を引いても どうしても消えなかった 今更なんだから なぁ、もう思い出すな 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 心の中に線を引いて(He/art:彼/芸術)音楽と距離を置いてみても、指で机を弾く癖が抜けないというこの歌詞からは、エイミーがかつて憧れていたピアニストの夢を未だに捨てきれないでいる様子が伺える。 このことから、やはりエイミーの人生には音楽しかなかったということがわかる。 幸せな顔した人が憎いのはどう割り切ったらいいんだ 満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感 間違ってないよ なぁ、何だかんだあんたら人間だ 愛も救いも優しさも根拠がないなんて気味が悪いよ ラブソングなんかが痛いのだって防衛本能だ どうでもいいか あんたのせいだ 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna それと同時に、音楽のことしか考えられない芸術至上主義のエイミーは、大切な筈だったエルマに対しても嫉妬を抱いてしまう己の醜さを「化物みたいな劣等感」と称していたのだと思われる。 僕だって信念があった 今じゃ塵みたいな想いだ 何度でも君を書いた 売れることこそがどうでもよかったんだ 本当だ 本当なんだ 昔はそうだった だから僕は音楽を辞めた 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna そんな音楽に対する葛藤と矛盾が、エイミー自身を狂わせ、行き着いた果てが 音楽を辞めるという決断に繋がってしまったのではないだろうか。 そして手紙の初めには、もうインクが残り僅かになったことが書かれていた。 (実際に文字が少し掠れている) それとエルマに向けて、箱に入れた詩と曲は全て君のものであり、僕にはもう必要ないと述べ、作品のことばかり考える自分自身のことを「芸術狂いの醜い化物」と呼んでいた。 冒頭、インクが切れたようで、文字がかなり掠れている。 そこには、エイミーの人生観が綴られていた。 終わりのない小説は詰まらない。 それは人生にも言えることであり、エイミーにとってその物語は音楽でしか表せないそうだ。 そしてこの箱に入れられた詩曲が、エイミーを象った人生そのものだという。 それから、この手紙を入れた箱はエイミーが送った訳ではないらしい。 どうやらエイミーは、そのうち親切な誰かが送ってくれることを祈って、エルマの住所を書いたメモ書きを箱に添えただけのようだ。 (ということは、にわかには信じがたいが、物語としては本当にそうなったことになるのだろう) その人生は妥協の連続だったようで、エイミーはピアニストに憧れていただけではなく、小説家にもなりたがっていたらしい。 そんな一度音楽を辞めたエイミーが、こうしてまた夢を諦めきれずに詩を書き始めるようになったのはエルマの詩を読んだからだそうだ。 エイミーは、その時触れたエルマの詩に「月明かり」を見たようで、それは夜しか照らさない無謬の光を放っていたという。 そして手紙には、数滴の滲んだ涙と思われる跡が付いていた。 嘘つきなんて わかって 触れて エルマ まだ まだ痛いよ もうさよならだって歌って 暮れて夜が来るまで 「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna.

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ヨルシカの設定について、これであってますか?

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Contents• ヨルシカとは?セカンドアルバム「エルマ」とは?歌詞の意味とエイミーとは?発売日は? ヨルシカとは? ヨルシカとはいわゆるボカロPとしても 活動している n-bunaとボーカルの suisという メンバー二人によるバンドになります。 プロデューサー、コンポーザー、 ギタリストである n-buna、 ボーカルの suisの顔や年齢等の 情報は公開されていないため パーソナルな情報は隠された 謎のバンドということになります。 ヨルシカの楽曲はストーリー性が高く YouTubeに投稿されるアニメーションの MV動画はどれも圧倒的な再生数を誇ります。 ヨルシカのセカンドアルバム「エルマ」とは? ヨルシカが発表するセカンドアルバム 「エルマ」は前作 「だから僕は音楽を辞めた」の 主人公である青年から送られてきた手紙に 影響を受けた女性・ エルマが手がけたという 設定の楽曲が14曲収録されます。 つまり ヨルシカの 「エルマ」は コンセプトアルバムということになり ストーリー性の高い楽曲が 収録されるということになります。 そのためアルバム 「エルマ」の 歌詞を通して聴くことでその世界観が 見えてくるアルバムということになります。 ヨルシカのセカンドアルバム「エルマ」の歌詞の意味と考察は?エイミーとは?「心に穴が空いた」の動画は? 前作 「だから僕は音楽を辞めた」の歌詞は 僕という男性目線で書かれた曲が多かったのですが 「エルマ」に収録の 「雨とカプチーノ」や 「心に穴が空いた」の歌詞を考察すると セカンドアルバム 「エルマ」の 主人公である エルマの目線で 歌詞が書かれていることが分かります。 そして 「心に穴が空いた」の歌詞に出てくる 「君だけが僕の音楽」なんだよ、エイミー この エイミーという名前こそが 前作 「だから僕は音楽を辞めた」の 主人公でもある エイミーというわけです。 ということで 「エルマ」というアルバムは 「僕は音楽を辞めた」と続編でもあり 対になるアルバムであるわけで、 2枚のアルバムを通して聴くことで エイミーと エルマの 二人が紡いでいるストーリーが 浮かび上がってくるのではないでしょうか。 だから僕は音楽を辞めた 初回生産限定盤 ヨルシカはこちらから ヨルシカ — 心に穴が空いた Music Video 動画はこちらから ヨルシカのセカンドアルバム「エルマ」の発売日はいつ? ヨルシカのセカンドアルバム 「エルマ」の 発売日は2019年8月28日になります。 ヨルシカのセカンドアルバム「エルマ」の収録曲は?初回限定盤の特典は?店舗によって違う? ヨルシカの 「エルマ」の 収録曲は下記のようになっています。 01 車窓 02 憂一乗 03 夕凪、某、花惑い 04 雨とカプチーノ 05 湖の街 06 神様のダンス 07 雨晴るる 08 歩く 09 心に穴が空いた 10 森の教会 11 声 12 エイミー 13 海底、月明かり 14 ノーチラス ヨルシカの 「エルマ」は初回限定盤と 通常盤の2形態で発売されます。 初回限定盤には青年 エイミー が 訪れた土地を エルマがたどる旅で 撮影した写真や、その中でつづった 日記帳が封入されるます。 初回限定盤に付属する日記帳は 「僕は音楽を辞めた」と 「エルマ」の2枚のアルバムを 読み解くうえで重要なアイテムとなりそうです。 また、 ヨルシカの 「エルマ」は お買い求めの店舗によって 購入特典が異なります。 ヨルシカの 「エルマ」の各店舗の 購入特典は以下のようになっています。 Amazon. 月光と名付けられた ヨルシカの ワンマンライブツアーは 東京・大阪・名古屋で開催されます。 ヨルシカ LIVE TOUR 2019「月光」の ツアー日程や詳細は以下のようになっています。 今回の「 ヨルシカ LIVE TOUR 2019「月光」」も 競争倍率の高いライブチケットになることは 確実ですので、最速先行受付の 抽選に申し込むことをおススメします。 また、 ヨルシカのライブツアー 「ヨルシカ LIVE TOUR 2019「月光」」の セットリストに関して n-bunaの Twitterで次のような気になる ツイートがありました。 ツアータイトルからある程度わかるように「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」の2アルバムから成るコンセプトライブ。 他過去の曲等は一切やらないのでそこだけよろしく — ナブナn-buna nabuna2 ということで今回の ヨルシカの 「ヨルシカ LIVE TOUR 2019「月光」」の セットリストは 「だから僕は音楽を辞めた」と 「エルマ」の2枚のアルバムの 楽曲のみのセットリストになるようです。 ということで今回は 話題の ヨルシカのセカンドアルバム 「エルマ」と 「ヨルシカ LIVE TOUR 2019「月光」」の 情報をご紹介しました。 今後もこのブログでは ヨルシカの情報をご紹介したいと思います。

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【ヨルシカ/エルマ】歌詞の意味を徹底解釈して考察!切なすぎる主人公の心情とは!?

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About ヨルシカ ヨルシカのブレイクが物語る、想像し、読み解くという音楽の楽しみ方 インターネット上のコンテンツ出身のアーティストたちがリスナーの裾野を広げ、音楽シーンの前線へと躍り出るようになったここ数年。 中でも最右翼といえるのが、VOCALOIDクリエイターとしても活動し、現在は他アーティストへの楽曲提供などもこなすコンポーザー・n-buna ナブナ と、もともとは彼の楽曲のファンであったというシンガーの suis スイ からなるバンド・ヨルシカだ。 その勢いは数字の面でも明らかで、2019年7月現在、「言って。 」と「ただ君に晴れ」が、それぞれYouTubeで4000万近くの再生数を獲得しているほか、今年の4月にリリースされたばかりのフルアルバム『だから僕は音楽を辞めた』からも「藍二乗」「だから僕は音楽を辞めた」の2曲が既に1000万再生を突破。 顔出しをせずロゴのみをアーティスト・ビジュアルとし、TVなどのメディア露出もないにもかかわらず、である。 つまり、ヨルシカの音楽が支持を得ている理由は、楽曲の良さ、ほぼその一点に尽きる。 外連味のないギターロックを軸としながら、音色やバランス面を細部まで突き詰めることで、透明感や奥行き、耳触りの良さを高水準で実現。 変拍子や超高速BPMといったアプローチも少なくないネット発の音楽においては却って珍しいともいえるサウンド感だが、その所以は、ブルースからポップス、エレクトロニカまであらゆる音楽を好むn-bunaが、ヨルシカとして表現したい音とビジョンを明確に定め、そのために必要な手法を豊富な引き出しから適宜セレクトしているから。 そして彼のメロディと言葉が持つ力は、suisが巧みに感情を差し引きしながら歌うことで増幅するのだ。 極めてコンセプチュアルな作品性も特筆に値する。 一本のコンセプトに基づいたアルバム自体は珍しくないが、ヨルシカの場合はこれまで全ての作品が、物語のサウンドトラックのように、あるいは物語の一部であり、作品をまたいで伏線を回収したりすることも多々ある。 ただし、そこに具体的なストーリーは明示されず、聴き手が各自ストーリーを想像したり脳内で補完しながら聴き進めることに。 先行配信された「心に穴が空いた」「雨とカプチーノ」、そして8月28日にリリースが決まった2ndフルアルバムでもその手法は変わらない。 今作のハイライトでありラストを飾るミドルバラード「ノーチラス」へと至る全14曲において、ピアノをフィーチャーしたギターロックという中核はそのままにバリエーションは豊富になり、描かれる心象や情景に滲むメランコリーを、ときに切々と、ときにあえて明るいトーンのサウンドと歌声をもって表現するヨルシカ一流の手つきは、ますます冴えを見せている。 アルバムで描かれる物語の概要やその意図を断定することは、、ここでは避けたい。 n-bunaがインタビュー等で常々発言している通り、ヨルシカの音楽は個々の感性で自由に受け止め、想像を巡らせることで面白みが増すものだ。 ただし、そうするうちに「ノーチラス」(作家・ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』に出てくる潜水艦の名)よろしく、とんでもない深みに潜っていくことにはなるだろう。 文=風間大洋 アルバムの初回限定盤「エルマが書いた日記帳仕様」には、CDに加えて、エルマの旅の足跡を記した日記帳と写真が封入される。 音源やミュージックビデオだけで楽しむこともできるが、その世界に入りこむことで、一つ一つの曲に込められた背景を、より深く味わうことができる。 なぜ、どのようにしてこの作品が生まれたのか? インタビュー前編では、ヨルシカのコンポーザーn-bunaの原風景やルーツから、創作の背景、ヴォーカリストsuisの歌の表現の成長など、様々な切り口から語ってもらった。 『だから僕は音楽を辞めた』で音楽を辞めた「青年」の物語を作って、それと対になるコンセプトを持ったアルバムをもう一枚出そうと最初から考えていました。 『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』のプロットを同時に考えていった感じです。 制作自体は前のアルバムが発売された後に取り掛かったので、だいぶ期間は短かったんですけれど、楽しかったですね。 たしか「ノーチラス」と『だから僕は音楽を辞めた』に入っている「藍二乗」が、ヨルシカを始めて最初の頃に作った曲ですね。 ヨルシカを結成したのは2017年の春なんですけれど、音楽を辞めた青年と、それに影響されて模倣するように生きるエルマという人間の話をコンセプトにした作品は、その頃から作ろうと思っていました。 「ノーチラス」のデモも、その頃から僕のパソコンの中にはずっとありました。 バンド形式というか、そういう形で作品を作りたいという。 あと、昔から、映画や小説のような一つの作品が作りたかったんです。 コンセプトをしっかり固めた上で、その作品の中に音楽というものがあって、それをパッケージして世に出すということがしたかったのが、ヨルシカの始まりですね。 それを人間的なヴォーカルを使って表現したくて、suisさんという人と出会って組んだ感じです。 暗い詩を歌ってもどろっとしなかったというか。 ある種の爽やかさを持っていた人なので。 そこら辺が大きかったなと思います。 ーsuisさんにとっては、n-bunaさんと出会ってヨルシカで歌うというのはどういう体験でした? suis ヨルシカの前に、n-bunaくんのボーカロイド曲を歌うライブのゲストヴォーカルをして、そこで見つけてもらったんです。 もともと彼の描く歌詞や世界がすごく好きだったので、最初に聞いたときには嘘みたいな話だと思ったんですけれど。 『人生って面白いな』って感じでした(笑)。 歌詞にもラップランドやガムラスタンという現地の地名も出てきますが、そのことも最初から明確にあったんでしょうか? n-buna そうですね。 スウェーデンは幼少のある時期住んでいた国で、ガムラスタンはよく行っていた街です。 そういう子供のころ見た綺麗な景色とか、その頃に体験した思い出って、ずっと忘れられないですから。 そうして今も影響を受け続けている僕の原風景の一つを書いたのが「ノーチラス」という曲です。 最初は「言って」と「雲と幽霊」(『夏草が邪魔をする』収録)みたいに曲と曲単位でやっていたんですけれど、次は必然的にアルバム単位でそれをやろうということを考えていました。 n-buna そうですね。 エルマという人間は音楽を辞めた「エイミー」という青年が残した作品に影響を受けて、それを真似るように生きてしまう。 まさに芸術への模倣ですよ。 オスカーの言葉を現代の解釈で、音楽で描こうとしたのがコンセプトの始まりです。 最初は、感情のある声、感情的に聴こえる歌を歌おうって思っていたんです。 『夏草が邪魔をする』と『負け犬にアンコールはいらない』でやってたことはそれに近くて。 ただ、実際、感情のある声って結局テクニックでもあるんです。 感情がこもってなくても出せるというか。 で、今回の『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』では、歌い方も変わりました。 『だから僕は音楽を辞めた』では「青年」に感情移入をするというか、その役に入って、「青年」の気持ちを感じながら歌うという形でやったんです。 で、『エルマ』では、エルマが音楽を始めて、自分の歌、自分の人生を歌った曲なので、感情移入というよりも、suisではなくエルマとしてレコーディングするという風に考えていました。 没入感というよりも、エルマ本人が歌っているという表現にしようと思いました。 元々器用に表現する人だから、ヨルシカというものに適応したと言ってもいいかもしれないんですけれど。 僕が書いた曲に対して、ちゃんと考えてその時々の役に入り込ん で歌ってくれる。 映画における役作りみたいな感覚で歌ってくれているというのは、ありがたいと思っています。 どんなイメージから曲調を組み立てていったんでしょうか? n-buna 『だから僕は音楽を辞めた』の方はそもそもピアニストに憧れた青年の物語なので、ピアノというものが一本の軸になって通っているんです。 『エルマ』も青年に憧れてピアノを始めているので、それは共通していますね。 その上で『だから僕は音楽を辞めた』の方は、言ってみれば全体的に荒々しいロックバンドのスタイルで作っている。 一方で『エルマ』は、「憂一乗」でアコースティック・ギターだけ始まるようなアレンジがあったり、全体的に柔らかいイメージで作っています。 あとは、エルマはエイミーに影響を受けてはいるんですけど、エイミーにはない癖があるんです。 たとえばメロディやリズムで言うと、三連符やシャッフル・ビートを多用している。 歌詞もそうですね。 「声」や「神様のダンス」には、エイミーが使わないような言葉遣いが出てくる。 歌詞を書くときにも「これはエルマという女性が書いた歌詞だ」と思いながら書いているので、ちょっと表現が柔らかくなったりしてると思います。 音楽的なところで言えば、僕はブルースとか、ギターヒーローのようなギタリストが好きなんです。 ジョニー・ウィンター、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、ラリー・カールトンのような人達が好きだし、影響を受けていると思います。 映画だったら、クリストファー・ノーランやデビット・フィンチャー、あとはヒッチコックが好きで影響を受けています。 あと、僕は近代歌人が好きなんです。 名前を挙げるならば、正岡子規、与謝蕪村、種田山頭火の俳句や短歌にはすごく影響を受けています。 作品の中でもいろんな箇所でオマージュしていますね。 あとは、物語の骨格にも井伏鱒二の「山椒魚」からの影響があります。 「山椒魚」は簡単に言えば、どんどん自分の体が肥大していってそれによって岩屋から出られなくなった山椒魚が、ある日迷い込んできた蛙を閉じ込めてしまう話です。 『エルマ』では、エルマ自身の 中で虚無感や焦燥感がどんどん肥大していく。 エイミーの書く詩や文章、曲調やメロディー から、一人称までも真似して、エイミーになろうとする。 ここでいう山椒魚はエルマです。 岩屋は音楽であり、エイミーの残した作品であり、エルマの生き方そのものです。 『山椒魚』を僕なりの解釈で噛み砕いて隠喩にしたものが、今作の骨組みであり土台です。 この作品には二人の関係もなぞらえられている印象もありますが。 n-buna そうですね。 僕は与謝蕪村と松尾芭蕉の関係というものが好きで。 与謝蕪村は、松尾芭蕉が残した作品に影響を受けて、芭蕉が辿った道をなぞるように日本中を旅している。 それは本当に美しい芸術の模倣の仕方だと思うんです。 それこそ、オスカー・ワイルドの言葉が、そのままこの頃の日本でも行われているんですよ。 ヨルシカでエイミーとエルマの物語を作るにあたっても、そういう構造を描きたかったというのがあります。 『山椒魚』も与謝蕪村の話もそうですけど、結局、僕はそのオスカー・ワイルドの「人生は芸術を模倣する」という言葉をヨルシカで表現したかった、そこに尽きるんですよね。 いろいろ話を聞いて、すごくわかりました。 ポップ・ミュージックの歌詞を形容するにあたって「文学的な〜」という言い方をすることはよくあるんですが、ヨルシカの場合は、ちょっと違うなと思いました。 むしろ「音楽的な文学」というほうが近いかもしれない。 n-buna いい表現ですね。 ありがとうございます。 ただ、リスナーには、何も考えずに頭を空っぽにして聴いてもらえたらいいなとも思うんです。 そういうアルバムとしても作っているので。 この曲がいい、この歌詞がいいって、ただ音楽として楽しんでほしい。 で、それもありつつ、その音楽が何故できたのかという背景も日記帳では説明しているので、興味がある人はその根底を知ってもらったらいい。 そういう思いで作っています。 close 閉じる the 2nd volume: 『エルマ』の全14曲からは、主人公「エルマ」が辿った旅の足跡が浮かび上がる。 一つ一つの楽曲は、1stアルバム『だから僕は音楽を辞めた』に収録されている楽曲と対になる構造を持っている。 そして、エルマの旅は、最後に胸に迫るクライマックスに辿り着く。 インタビュー後編では、ヨルシカのコンポーザー・n-bunaにその情景を一曲一曲解説してもらった。 車掌にパスポートの提示を求められて、電車がいつの間にか国境を超えている。 そこで「あ、もう国境を渡ったんだ」と気付く。 そういう旅の始まりを書いた曲です。 n-buna 前作の「藍二乗」は虚数単位のiのことなんです。 虚数単位iの2乗でマイナス1になる。 エイミーが1人になってエルマがいない状態を「藍二乗」と言ったわけなんですけれど、そこから影響を受けたエルマは「i」から連想して「You」という言葉を使ったわけですね。 「憂一乗」は、日記帳の最後の方にある「湖の底に飛び込んだ そこから見る月明かりが綺麗だった」という情景から出来た曲です。 水の中の底から見る景色を曲にした。 僕自身が昔、綺麗だなと思った景色でもあります。 そういうものが書きたかった。 n-buna これは「八月、某、月灯り」と対になっている曲です。 エイミーがロックンロールを書いたように、それにならってエルマはロックンロールを書くわけですね。 「この歌の歌詞は380字」という歌詞も「藍二乗」のオマージュです。 このタイトルのもとになった着想は、東京で見た花火なんです。 東京ってビルが沢山あって、花火が建物の影に隠れて半円のように途切れて見えるんですよね。 風の止んだ夏場にそういう花火が上がっている風景がタイトルの原型になっています。 この曲はエイミーとの思い出を語っている曲です。 日記の終わりの方にもエルマとエイミーが見た花火の話が書いてあるんですけど、それを思い出してエルマが書いている。 過去にエルマとエイミーが出会った時のことを書いている。 雨のカフェテラスで、カプチーノを飲んでいるエイミーをエルマが見ている。 その情景をもとにした曲です。 これは「詩書きとコーヒー」と対になっていて、「詩書きとコーヒー」は詩を書くエイミーの話で、「雨とカプチーノ」はそれを見ているエルマの話ですね。 日記帳の日付では「雨とカプチーノ」を書いているのは9月の初めになっています。 歌詞にある「八月のヴィスビー」というのは、その前にエルマが居たヴィスビーのことを思い出している。 夏が終わる情景を書いています。 日記帳では4月5日にエルマがヨンショーピンに泊まって「白夜から中々沈まない夕陽を眺める」と書いている。 僕自身もそこで泊まったんですけど、本当に綺麗で良い街でした。 砂浜が綺麗だったし、湖も涼しかった。 そこで録った環境音も使っていますね。 ビートに関しては、欧米で数年前から流行り始めていたローファイヒップホップというジャンルから取り入れたりもしてます。 他のインストでもそうなんですが、サブベースという下の帯域のシンセを足したり、僕の好きなタイプの現代的なサウンドを取り入れています。 あともうひとつ、今回のアルバムではインスト曲に共通する一つの楽器を使って、それで流れを作りたかったんです。 けれど、なかなかそれが見つからなくてめちゃくちゃ苦しんだんですよね。 で、楽器屋に行って、マンドリンとウクレレが合体した謎の楽器を見つけたんです。 表がマンドリンで、裏がウクレレみたいになっている。 僕は「マンドレレ」と呼んでいるんですけど(笑)。 使ってみたら気持ちいい音になったんで、最初のピアノソロ以外のインスト3曲では全てその楽器を使っています。 n-buna そうですね。 「踊ろうぜ」という曲は、エイミーが芸術という神様に踊らされる自分のことを書いている曲です。 エイミーにとって神様とは作品の中にいるものなので。 対して、エルマにとっての神様はエイミーのことなので、エイミーが作った音楽を「神様のダンス」と表現したわけですね。 そういう対比があります。 だからこそ、これもシャッフルビートではあるんですけど、ジャジーながらも楽しげなピアノ主役の曲になっています。 「六月は雨上がりの街を描く」は雨上がりの曲じゃなくて、雨上がりの街を描きたいということをエイミーが書いている曲。 そして、実際に、雨が上がって晴れた六月の街の曲をエルマが書いた曲が「雨晴るる」です。 これは山頭火の句から題を取っています。 山頭火は「山は街は梅雨 晴るる海のささ濁り」という歌を旅の途中で詠んでいるんですが、そこからとって「雨晴るる」というタイトルにしました。 そのことによって山頭火へのリスペクトを示しています。 君が旅した街を歩くという、そこに尽きる曲ですね。 これは「五月は花緑青の窓辺から」という曲と対になっていて、だから歌詞の中に「頬を伝え花緑青」と書いている。 「五月は花緑青の窓辺から」で「例う涙は花緑青だ」と、毒性を持った染料に涙を喩えて歌っていているので、それを「歩く」の中でも引用しています。 n-buna これは「夜紛い」と対になっている曲ですね。 「夜紛い」では「人生とはマシンガン」と自分の人生をマシンガンに喩えている。 「ただ一つでいい 君に一つでいい 風穴を開けたい」と、音楽で君に穴を開けたいんだと言っている。 そしてエルマは「だから心に穴が空いた」と返している。 そういう構造ですね。 n-buna 環境音はゴットランド島のヴィスビューからフォーレスンドに向かう途中にある森の教会で録音しました。 すごく静かで、綺麗な教会なんです。 『だから僕は音楽を辞めた』の木箱の中にも教会を撮った写真があります。 それを見てエルマは「写真の場所だ」と思ってその教会に足を運ぶ。 日記の中でも7月4日にそこでお婆さんと再会するという話が書かれています。 「パレード」のリフをそのまま使っているんです。 あとは『だから僕は音楽を辞めた』の手紙の中で「パレード」について「声のことだよ」と書いているんです。 「誰も見たことが無いのに、話をすると顔を見せる」とか「気分によって暖かくもなり、冷たくも成る」と、謎かけっぽくエイミーが書いた詩が「パレード」。 それに応じてエルマが「声」という詩を書いたという形です。 n-buna そうですね。 エルマはエイミーのことを模倣して、エイミーの気持ちになろうと曲を書いているわけですね。 そのうちに、エイミーと同じ行動原理を持つようになって、同じところにまで行き着いてしまう。 その結果、エイミーと同じことを考えて、エイミーの辿り着いた桟橋に向かうという。 エルマという人間がそのまま出ている作品です。 日記帳の文字の筆跡もここだけ字体が違うのは、エルマがもうエイミーの模倣を辞めているからです。 「このまま、何処か遠くの国で」と「エルマ」の詩をそのまま引用しているところもあるんですけれど、エルマ自身が初めて自分の音楽を作りたいと思って書いたという立ち位置の曲です。 これは僕自身の原風景でもあります。 岐阜の山の上にあるプールによく行ったんですけど、底が深いプールで、身体から完全に息を吐き切って沈んで上の方を見ると、日光が綺麗に差している。 口から吹いた泡も綺麗に写って、その景色を今でも鮮明に覚えている。 その原風景が投影されています。 『エルマ』の物語の中では、エルマが湖に飛び込んだ後、月明かりのような日の光が見える。 それを心底綺麗だと思う。 そういう瞬間を切り取ったインストです。 これはとても重要な曲ですね。 n-buna そうですね。 「ノーチラス」という言葉は、ジュール・ヴェルヌの『海底二万マイル』に出てくる「ノーチラス号」からとっています。 潜水艦で世界を旅する話なんですけれど、すごく好きな小説なんです。 あの艦長もエゴの塊みたいな人間ですけど、主人公よりそっちの方に感情移入をしていて。 n-buna アルバムにおいては、海の底に沈んで、そこから潜水艦のように浮上するという曲です。 これは夢の中から目を覚ますということでもあるんです。 深い夢の中、海の底みたいな眠りの中から目を覚ます。 それを潜水艦に喩えたのが「ノーチラス」という曲です。 歌詞でも「眼を覚ます」と書いている。 そして、眠りは死や別れの隠喩でもある。 そういうところから書いています。 物語の中では「ノーチラス」はエイミーが最後に残した曲ということになっています。 エイミーが最後に自分の原風景を書いた。 その曲をエルマが最後に歌って終わるというアルバムです。 きっとMVを見たら、いろいろとわかると思います。 であると同時に、物語がたどり着く場所でもある。 n-buna この曲はヨルシカの到達点だと思います。 僕の個人的な思いもいろいろ詰まっていて。 たとえば、僕は昔から同じ夢を何度も見るんですけれど。 その中の一つで、向こう側が見えない丘の前に誰か人が立っていて、そこに向かって歩いていく夢です。 僕の中では、その丘の向こう側にスウェーデンの景色があったんですよね。 ラップランドの納屋や、ガムラスタンの古通りがあった。 そういう情景も元になった曲です。 こうして聞くと、『エルマ』の14曲と『だから僕は音楽を辞めた』の14曲、それぞれ一つ一つにディテールと奥行きがあることが伝わってきます。 n-buna 無駄な曲は一つもないですね。 構想自体はずっと前からあったんですけれど、それをもとに曲を完成させて、詩を書いて、レコーディングに臨んでいった。 楽しくやれました。 これはどんなイメージで作っていったんですか? n-buna 監督の方と「このMVではこういう場面を描きたい」という話をして作っていきました。 初回盤を手にとった方が「あ、これはこの場面を描いたものだったんだな」と納得してもらえればいい。 ストレートにその場面や心情を描いたMVを作っています。 n-buna そうですね。 映画とか小説と同じように、エルマとエイミーの物語を楽しんでもらえればと思います。 10月に東名阪でツアーが予定されていますが、これはどんな感じになりそうでしょうか? Suis ライブという舞台装置のある場所で、生の音楽でこの2枚のアルバムの世界観を届けられたらなって思います。 n-buna コンセプトを大事にした、コンセプトありきのライブにしたいなと思います。 エイミーとエルマの物語の中に入り込んでもらうような感覚で、一つのライブ作品として徹底してやれたらなと思っています。

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